フランス人と結婚しました。

交通事故に遭い脳損傷者となった「私」の社会復帰、海外生活の実情を語ります。

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Posted by MGB

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人間の掟




受けたくても受けられない?ハードル高い新型出生前検査

自然の掟のように”人間の掟”が語られることに激しい嫌悪を抱く。
高齢出産という概念が私たちに植えついたのはいつからだったのだろうか。
高齢出産が忌避されるべきものとされたのは障害児の出生率上昇がまず思い浮かぶ。そこから障害の有無を検査する出生前診断が定着した。今度は年齢による検査の是非ではなく、妊婦全体に、希望者が受けられるように保険適用でもしようとするのか。障害児や障害者(人災の結果も含む)は自然ではないのだろうか。

こうした誘導はさすが読売だと思う。
さも制度的な不具合があるとの論調で、優性思想を基盤とする障害児排除から障害者や病者にとって居場所の、行き場のない、社会のお荷物だから切り捨てられても仕方がないとそこに疑問をもたない大衆をつくり出したいのだろう。ここで利益を得られるのは医療者と検査キットを販売する製薬会社。
この構図は決して人間を、私たちを幸せにはしない。


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自然出産をなぜ問題視するのか



自然② 自然



数日前、こんな記事(以下参照)をみつけた。
そして、以前、この女医に対する異議を申し立てたのだが、読売では当然のことながら採用されなかった。むろん、製薬会社などとの癒着があれば、つまり、妊娠前に二分脊椎予防に「葉酸」摂取を推奨していたので、食物からの摂取が難しいとされる葉酸サプリの原材料がなにかを尋ねたのだが、不採用という残念な結果になった。妊娠出産ですら薬物漬けにされてたまるかという私側からの視点がある一方で、利益のためなら「あなたのため」「子どものため」とのうたい文句で、一円でも多く搾取しようとする勢力との対立。問題は”正しい情報が提供されない中で命にかかわるあれこれの選択をせざるをえないという不条理”に他ならないのだろうが、もっといえば、病院での出産時の事故、ワクチン接種によって子供が障害や死亡に至る人災を無視した上で(情報の非開示は彼らの常套手段)、自然分娩へのただならぬ恐怖心だけを植え付ける言動に「問題あり」と私はみてしまうのだ。


宋美玄のママライフ実況中継


医師という肩書で「これは正しい」「これは危険だ」という誘導に、多くの人は騙されてしまう。
私が違和感を抱くのは、すくなくとも25年前に娘を出産したときにサプリメントを喜んで服用している妊婦はいなかったことがある。自閉症児、発達障害はもとより、アトピーでさえ周囲ではみかけなかった。高度経済成長時、猛烈社員という流行語があったのを思いだすのだが、あの当時、家庭を顧みずに仕事に明け暮れた男たちの鬱罹患者が今より少なかったのはなぜなのだろうか。出産に話を戻すと、医師も食事指導こそしても薬物(サプリとて胎児への悪影響については不明のまま)については慎重そのものだったし、それが時代背景というよりも、そんな昔にサプリがなかったから、飲みたくでもなかったからだなどともし反論される方がいらっしゃるとしたら、25年前よりもっと前、私の母や祖母の時代と比較すればわかりやすいのではないのだろうか。私たちにとって足し算がさも科学の恩恵のような気になってしまっているが、引き算の重要性を忘れてはならないと思うのは、体を壊した影響や医療に翻弄されてきた結果、私が導き出した自然を取り戻す方法だったような気がしてならない。

自然というのは生と死が一対になっているにもかかわらず、なぜか死だけが忌避される。
そこで生だけを取り上げ語るのは、生死に関与している医師としては、まさに死が敗北なのだと思わずにはいられない。特に出産などの自然回帰は”不自然”からの脱却、決別なのではなかろうか。これ以上、薬漬けにされるのはご免だという体の声に素直に従う結果だとしたら、それとて選択の自由であってしかるべきものであり、ましてカルトなどと影響力の強い表現を使って操作しようとする裏に、なにかがあると疑いたくもなるのも無理はない。

私の臍はかなり曲がってしまっているせいで、専門家などという人たちが、どれほどの知識があるのかと穿って見なければ気が済まない趣味が癖づいた。それは、日本には立派なパンフレットはあるもののそこに名を連ねる専門家という方々にお会いして失望した経験があまりにも多すぎたのだろう。また事実を書いてもファンタジー扱いにされてしまうなど、枚挙にいとまがない。言葉が劈(ひら)かれる場面が日常にあふれかえってしまうと、それがあたかも当然のような空気ができあがる。そのために医師や弁護士、大学教授や専門家といった社会的地位、つまり無垢な庶民が「彼らの言うことは信用に値する。なぜなら〇〇だから(〇の中には上記社会的地位が入る)」という構図で世論が完成する。

以前、私は製薬会社から利益供与を受けていない医師を探したことがあった。
なぜ私はそこにこだわったかというと、製薬会社の影響下にない医師でなければ、医療の神髄を語れないと思ったためだ。製薬会社の影響下にない医師が日本ではなぜ希有な存在であるのかおわかりになるだろうか。この女医がどちらであるかはここでは論じないが、第三者のチェックの必要性を論じるのであれば、葉酸の原材料くらいなぜ回答できないのかと不思議になる。国はもちろんのこと、テレビ、新聞、雑誌などのマスコミ、医師などをつかった製薬会社のキャンペーン(コマーシャル)がなぜ必要なのだろうか。国民の幸せや安全、健康のためなのだろうか。ひとりでも多くの人に、本来は必要ないサプリや薬を売るためだなどと言う医者がいれば、その正直さだけは評価したい。


※誤字脱字お許しを。

いのちを選ぶ社会②





フランスでは96%が中絶を選択しています。
スクリーニング(出生前診断)の性能が100%ではないのにです。ですが、疑いがあるレベルでしかない場合についても、妊婦は妊娠を継続することなく中絶を選んでいます。



欧米社会にとってスクリーニングが浸透した背景にいは「功利主義」、つまり最大多数の最大幸福を求めるという思想が根底にあります。障害者を排除する社会が健全なのかという疑問は高齢妊娠出産を希望する当初からわたしが持っていたものですが、欧米でここに至るまでさした議論は行われてきていないのは驚きです。逆に日本ではダウン症児を育てる親や医療関係者を中心に議論が繰り返しなされてきたことに加え、日本人はスクリーニング希望者に行う検査前の勉強会において、中絶を選択する女性は極端に少ないという特徴があるのです。それは日本文化や風土と欧米との差異を如実に表すひとつの結果なのではないでしょうか。



ときどき高齢妊娠や出産の情報を探しているときに思うのは、数十年前までは当たり前だった高齢出産が危険視されるようになったのはなぜなのだろう?と考えずにはいられません。試験官ベイビーはいまでは高齢妊娠にとって当たり前のステップとして広く提供されるようになりました。それと合わせてこのスクリーニング検査を日本にも浸透させるためのキャンペーン、検査会社の啓蒙活動と捉えると妙に納得できるのです。デザインベイビーという言葉があるように、精子や卵子を選択し、自分の希望する子供(性別含め)を妊娠出産することも可能です。高齢出産が危険、障害者を生むリスクが高いと刷り込めば嫌でも検査は受けるでしょう。とかく、日本は障害者と健常者を隔離し成立している社会なので、障害者が不幸だと信じ込まされている健常者の多さがその証拠かもしれません。それでもフランスほどの酷さはないのです。



わたしが出会った障害者、特に先天性といわれる子たちの生き様に感銘を覚え、彼らを前にして、自分自身が持ち合わせていた偏見、差別に洗脳教育の怖さをまざまざと見せつけられた思いがしました。障害者施設でも「中途」か「先天性」かで区別、差別するひとたちは中途障害者に限らず職員にもいましたが、どんと構え人生を受け容れる先天性の子たちに中途障害者は太刀打ちできませんでした。わたしが出会った子たちの中には薄情な父親が家を出て行ったきり戻らず、母親がその負担を一手に引き受けているという家庭もありました。自殺した母親、自殺未遂の末に生き残ってしまった母親もいまでは息子同様、中途障害者です。人生には回避可能な事態とそうではない事態とが複雑に入り混じって存在していますが、すべてを受け容れる、それが人生だという染織家 志村むくみさんの言葉が強く心に響き忘れられません。



厚生労働省において、軽度外傷性脳損傷は日本独自のバカげた見解を示しています。
方や、障害者を生ませないための施策は欧米を見習い、欧米に追い付け追い越せとスクリーニング(出生前検査)の全妊婦を対象として努力しているようですが、そこには自分は、自分の家族は、娘は障害者にならない、障害者を生まないという根拠のない自信の上に理論が成り立っているのかもしれません。がしかし、わたしがそうであったように、わたしの知人が遭ってきたように、医療過誤、医療ミスは存在します。しかも、わたしたちが想像するよりもたくさん。



怖い世の中になっていくのだとわたしが悲観せずにいられるのは、自分の選択を知っているからかもしれません。
いのちを選ぶ社会(出生前診断のいま)著書 坂井律子






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epure.japon.france@gmail.com








いのちを選ぶ社会





「いのちを選ぶ社会」著者 酒井律子を半ば読み上げました。
副題には「出生前診断のいま」とあったので、書店で立ち止まり手に取りました。わたしの中でひっかかりというか燻っている何かを擽ったのは紛れもない事実でした。けれど、常にそのことを考えているかといえば嘘になります。妊娠のためとはいえその前段階の性行為が苦痛になった自覚も最近のわたしを後押ししてか、そこに自ら飛び込んで溺れないよう泳ぎ方をあれこれ模索していたのは、まさしくその通りではあるのですが。



日本の主治医から紹介されたK病院で妊娠が可能か否かの検査を受けました。
その後、検査結果を聞くために再度受診したときの医師の言葉に違和感を持ってしまったのです。それは「検査結果はなにも問題ない。がしかし、君の年齢からすると不妊治療は急を要する」というものでした。検査結果は問題ないにもかかわらず不妊治療を強く勧められ、その費用説明も同時に受けました。わたしは当時、いまよりも2歳若い42歳でした。



わたしの祖母は10人の子宝に恵まれ継続的に妊娠出産を繰り返してはいましたが、最後の妊娠は45歳のときで、自然妊娠でしたし自宅出産で母子共に健康でした。祖父母の時代は今のような医療進歩もなかったわけですが、その方が妊娠出産もより自然だったのではないかと漠然とではあっても燻りとしてわたしの中で白煙を燻らせていたのです。



その後、フランスに来て驚きました。
主治医であるバーディーは「君の年齢なら不妊治療はいらない」と豪語したのです。とはいえ、念のためと前置きした上で、卵管造影検査・血液検査(排卵状態や卵子数のチェック)などのオーダーを施し、いくつかの医療機関の検査を受けました。そこでの説明は43歳の誕生日を過ぎていたわたしにはフランスで不妊治療は事実上行えないとの法的説明でした。続いて、卵子提供先、養子縁組、他国での治療可能施設と紹介が続き、ますますわたしは困惑していったのです。夫もどうしていいものか沈黙を守りながら思い悩んでいる様子でした。



しかも、大した説明を受けずに卵管造影検査の実施については抗議の気持ちがいまでも強く残っています。膣をこじ開けられ一時間以上もの間、下半身を露わに痛みの伴う検査に耐えたわけですが、検査後、ここまで出血するものとも知らず、感染症防止のの薬剤を渡されるわけでもなく、「左側が使いものにならない」と医師が言葉を残し、立ち去っていきました。が、わたしは検査室で血だらけで茫然と立ちつくしていたのです。これがどのような意味を持ち、今後どのように検査結果を生かせばいいのかわからないのですから。



むろん、医師を非難するつもりはないのです。
ただこうした検査が形式的に、だれも疑問なく受けているフランスの現実に足が竦みました。もし妊娠した場合、スクリーニング検査(胎児の振り分け、選別)を受ける必要があるとも説明を受けたのですが、これは紛れもなくある特定の障害、ここではダウン症(フランスでは21トリソミーとの名称)を指しますが、それを排除するための優生学だと言われても反論の余地がない事態にフランスも浸食されている事実にわたしたち夫婦は驚愕してしまったのです。



新生児(孫)の面倒を見ているうちに考えが変わっていきました。
もちろん、わたしたち夫婦にとって治療も検査も受けないスタンスは変化ありません。障害者だけではなく病気に罹患したひとも排除の方向で世界が突き進んでいます。その後、もっとみえるかたちで「性差」「貧富」「学歴」「国籍」「宗教」と弾圧が進み、最終的に優生の行き着く先は目に見えています。ただし、経済至上主義という魔物は原発だけではなく、こうした倫理的世界にも容易に首を突っ込み、検査の敷居を下げることによって、彼らが考える劣性を排除する実行部隊として機能してしまっている怖さがそこには横たわっています。この世に生を享けるどの新生児にその責任はありません。ただもう一度、立ち止まって、じっくり考えてみる必要はあるのだと思うに至るのです。いつから、どのようにして、不妊治療が広まってきたかを含めた産科医療の近代史を。



フランスの現状を知ると妊婦の時期から薬漬けになるので、自宅出産を選んだという知人が何人かいます。わたしも年齢的体調的リスクを考えたとき医療機関で出産したいと希望していたのですが、その考えは消え去りました。不妊治療は全面的に女性の負担の上に成立する行為です。わたしにはそれを選択するだけの資金力がないので議論前の話ではあるのですが、フランスが不妊治療を43歳の誕生日の前日まで」と年齢的制限を加えたことが理解できなかったのです。それは治療費で稼ごうとする発想の日本とは相違して、生まれてきた障害者にかかる社会的費用負担を考慮した上だと知り、言葉を失ったのです。



子供を、子供のいない人生をも享けいれる。
フランスではヨーロッパ人権条約 第8条(私生活と家族生活を尊重される権利)によって、障害者を産んだ親は医師を、「私生活の尊重ー身体の自己決定」、産む産めないを尊重するとしています。自己決定が出来ないのは人権侵害にあたるというのですが、胎児の「生命の尊厳」は議論されていないのです。



詳細は次号にてお伝えしたいと思います。
上記を踏まえると、原発被害が救済されない理由にも結び付くのではないでしょうか。





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epure.japon.france@gmail.com






切ない話




生まれたての赤ちゃんを乗せたバギーを押す男性とすれ違った。
自分でもなぜかよくわからないのだけれど、その男性とバギーが見えなくなるまで後ろ姿を見つめていた。ふと我に返り、家に帰るためのバスを辛抱強く待ちながら、突然、泣きたい心境に襲われてしまった。いきなり訪れたフランスの冬にまだ戸惑いはあるが、この寒さに悲しくなったわけでは決してない。



語学学校のストレス(いまは落ち着いた)、腎盂炎、卵管造影検査後の激痛を経験し、性欲と食欲が激減した。できれば毛布に包まってごろごろしていたいし、学校へ行くと一日のエネルギーを使い果たしてしまう感があって、家事もろくすっぽできず、夕食は主に夫の役割となって久しい。なにが言いたいのかというと、性欲がなくなってしまった。高齢出産といえど子供を望んでいるにもかかわらず、自然妊娠の道しか残されていないというのに、性欲のせの字もわたしにはない。



男性とバギーをずっと見つめながら、夫の姿を投影していたんだと思う。
赤ん坊が生まれたら間違いなく夫はあの男性のようにいつも子供の傍にして、ああしてバギーを押して、笑ったり、話しかけたりするんだってことがわかっているから。子供が生まれる前提で購入する物件の間取りの希望を考えている夫。わたしは自分の体力の限界や体調の浮き沈みがどうしても頭の隅っこに心配事としてこびり付いている箇所を知っているので、夫と赤ん坊の間で行き来し、口でいうほど平気じゃないんだと思った。妊娠出産できなくても重大。妊娠しても大変。後遺症の爆弾がいつどこで炸裂するかわからないし、子育ては以後、20年。60を過ぎてしまうじゃないか。もやもやとした感情を日々の喧騒や多忙を理由に見ないふりを決め込んでいたわりには、あの、卵管造影検査で、なにも聞かされないままはじまった不自然な格好を1時間も強いられた検査で、緊張やその後の痛みで「不妊治療を受ける自信がない」と自覚してしまったわたしは、最後の砦であったはずの性欲まで手放してしまったのか。それとも足音もせず近づいてきた更年期障害の渦中に片足を入れたのか。



検査・治療の一端を経験し痛感したのは、自然ではないものはやっぱり体が悲鳴を上げるのだと身を持って知った。だから不妊治療を否定するということではなく、子供を諦めたという意味でもなくて、わたしにはこれ以上、体を壊すリスクを負えないことがこんなところで幸いして、どっちにしろ医療行為はもう懲り懲りで、それを確認するためだったのかと思えてしまう。親せきのアンジも不妊治療に通っているが、女性だけがこんな苦しい思いをする。男には到底ひくりとした痛みすら耐えられないことがわかっているが、憎らしさを胸底に隠しつつも、この不平等さにやりきれなさを感じてしまうのも本音。女性に向けられる批判、なぜ子供が産めないんだという脅迫も、暴力だということがいまようやくわかる。



空を見上げ、コウノトリの到来を待ちわびる日々にはかわりないのだが。
生は言うまでもなく神の領域なのだと思う。



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